2025年9月21日日曜日

嘘っぱち

手紙を題材にしたラジオ番組がいつも掛かっているラジオから流れてくる。

毎回ユニークなゲストと司会者がトークして、最後にゲストが「大切な誰かに宛てた手紙」を朗読する、というのが主な流れ。朗読の後の司会者の拍手がそらぞらしいなあと毎回思いながら聞いている。

他にも、聴取者からの手紙(たぶん、ここで読まれるのはメールではなく手紙)を読み上げるコーナーもある。毎回そこそこ感動的な内容のお手紙が読み上げられる。

ふーん、いい話だなあと思うのだが、その直後に「ちょっと待て」と私はつい心の中で呟いてしまう。これ、書いた人は「いい話」としてまとめているけど、この話に出て来る家族や友人はそこまで「いい話」だと本当に思っているのだろうか。

極端な話、全くのフィクションを書いて送ったって、番組制作者や司会者にはそれが事実かどうかなど調べようがない。仮に、DV男で私や母の人生を台無しにした私の父親が、自分がいかに立派な人間で家族を大切にしてきたか、などと手紙にしたためこの番組に送って採用されたら、全国の聴取者はこの手紙を「素晴らしい感動物語」、私の父親を「家族思いの素晴らしい父親」として受け取るだろう。

書いた本人にとってはフィクションではなく「事実」であり「本心」である、と言ってしまえばそれまでだが、こういうことを考え出すと「本当にあった心温まる話」として紹介される話を鵜呑みにすることに対して抵抗や恐怖を覚える。

「心温まる話」を書く人が本当に善良かというのはどうでもいいことで、大事なのは投稿されたその話が「聴く人がほっこりできるかどうか」。それが私はなんだか悔しく悲しい。文章さえうまければ、番組スタッフや聴取者を騙すのは(書いた本人には騙す意図は全くなくても)簡単だからだ。

『柳の下で』こぼれ話

「柳の下で」本文 作中の歌はアイルランド民謡『サリー・ガーデン』 ( Down By The Salley Gardens)に歌詞を付けたもの。 原曲(イェイツが書いた詩)は切ない恋唄だが、吉原幸子の連作『Jに』をイメージして子守歌にしてみた。『Jに』は吉原幸子が赤ちゃん時代...